与論城跡は、与論島の中でも南側に位置する城(ぐすく)集落の西端に所在する城跡で、島を南北に走る断層崖を取り込んだ城域を持ちます。城主は、琉球国山北(北山)王の三男と伝わる王舅(おうしゃん)や琉球国の第二尚王統の最盛期とも称される尚真王代の人物とされる花城真三郎(はなぐすくまさぶろう)が、地域の伝承や家系図に伝わります。
平成5年度と令和2年度から令和4年度にかけて、与論町教育委員会が発掘調査を実施したところ、初確認された遺構や遺物、歴史的な動向を基にⅠ期からⅥ期に時期区分できることがわかってきました。
与論城跡の中で人の利用が確認できる与論城跡Ⅰ期(12世紀~13世紀後半)は、奄美・沖縄地域に大きな社会変動が生じ、沖縄史で「グスク時代」に移る時期に相当します。この時期は、発掘調査で得られた出土遺物量が少なく、遺構も柱穴跡が周辺部で確認された程度であることから、集落遺跡の一部だったと考えられます。
与論城跡Ⅱ期(14世紀前半~中頃)になると、遺物の出土量が増加し、台地部分の地区2を中心に造成が始まりました。沖縄本島でも石積みで囲まれたグスクの構築が始まることから、沖縄本島側の社会変動に連動した動向と考えられます。
また、土俵のある広場での発掘調査では、岩盤を埋めて造成を行っている状況が確認されましたが、造成後の生活層からは岩盤を埋める造成層から出土したヨロンジママイマイやシュリマイマイが確認できないことから、築城行為により自然環境(森林)が変化した可能性も確認されました。
与論城跡Ⅲ期(14世紀後半~15世紀中頃)は、崖下部分の造成や石垣構築、建物構築が行われ、現在の城域が整備された時期と考えられます。崖下にある大型の石垣や周辺の調査では、裏込めを用いる石垣の構築方法と、盛土による平坦面造成の状況が把握されました。また、崖下の平坦面の発掘調査では、整地面とともに複数の柱穴跡が確認され、建物が建てられていたことが把握されました。加えて遺物の種類・量ともに多く、中国産の青磁(せいじ)や白磁(はくじ)、褐釉(かつゆう)陶器(とうき)、備前焼(びぜんやき)、ガラス製品、赤色顔料のベンガラが付着した石製品、鏃(やじり)、刀子(とうす)、素文鏡(すもんきょう)、羽口(はぐち)などが出土しており、利用が最も盛んであったと考えられます。
発掘調査で確認された、築城に伴う大規模な造成行為や脊椎動物骨遺体(せきついどうぶつこついたい)や貝類遺体(かいるいいたい)の城内の出土傾向は、沖縄本島北部や奄美群島内では山北王の居城であった今帰仁(なきじん)グスクと似た状況が確認されたことや、山北王の三男が築城したとする伝承や、当時の歴史的な背景を踏まえると、山北の勢力が奄美群島方面へ進出する足掛かりとして人員を派遣して城跡を整備した可能性が考えられます。
与論城跡Ⅳ期(15世紀後半~16世紀)は、尚巴志(しょうはし)による琉球国の統一過程で山北が滅亡し、琉球国の統治下におかれる時期にあたりますが、遺構は確認されておらず急激に遺物量が減少することから、城内の利用は低調になったと考えられます。与論城跡もこの時期に何かしら利用された可能性が考えられますが、城内の利用は低調であることから城跡の機能・役割が変化した可能性があります。
与論城跡Ⅴ期(17世紀~18世紀)は、薩摩藩統治下の時期にあたり、発掘調査時の表土層や旧表土層は当該期の耕作等の利用によって形成されたもので、周辺部では耕作に伴う溝跡や畑の区画の石垣が構築されます。この時期の陶磁器類の産地は、沖縄産を中心に本土産(主に薩摩(さつま)や肥前(ひぜん))、中国産など多様であり、近世日本と琉球の境界に位置する与論島の状況を示していると考えられます。
以上のことから、与論城跡の考古学的特徴や形態、伝承は沖縄本島との繋がり、特に山北との関係を伺わせます。一方で、琉球国が奄美群島北部へ侵攻した15世紀中頃以降は城跡の利用が低調となることから、時代によって城跡の役割に変化が生じたと考えられます。
(令和7年3月10日 国の史跡に指定)

与論城跡の崖下にある石垣です。岩盤と岩盤の間を埋めるように石垣を配置しています。発掘調査の結果、石垣は14世紀後半から15世紀中頃にかけて整備されたことや、石垣の背後の平坦面は盛り土造成によって人為的に作られた平場であることが分かってきました。

与論城跡を南西側からドローンで撮影した画像です。神社のある台地の上から写真斜め下のため池があるサトウキビ畑直前の崖一帯が与論城跡の城域になります。