与論町ホームページトップへ
文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

与論町のあゆみ(~大正)

最終更新日:

1266年(文永3年)

  • 琉球国の英祖王に納貢し、琉球所属となる


1405年(応永12年)~1416年(応永23年)

  • 琉球北山王の三男王舅が与論城を築く
  • 城は北山滅亡のため未完成となる


1525年(大永5年)

  • 又吉按司、与論島主となる


1561年(永禄4年)

  • 十五夜踊り始まる


1609年(慶長14年)

  • 島津の琉球入り、尚寧王降伏


1610年(慶長15年)

  • 薩摩藩の所属となる
  • 直川智、サトウキビを初めて大島の大和浜に栽培


1612年(慶長18年)

  • 大島本島に代官を設置


1616年(元和2年)

  • 徳之島に代官を設置
  • 屋口与論主藩主任官となる


1682年(天和2年)

  • 蘇鉄(そてつ)植栽始まる


1690年(元禄3年)

  • 沖永良部島代官、徳之島より分離


1691年(元禄4年)

  • 人口1,294人


1719年(享保4年)

  • 琉球王へ贈物


1721年(享保6年)

  • 人口2,130人


1778年(安永7年)

  • 痘瘡(天然痘)が大流行し、大飢饉となり多数の死者が出る


1781年(安永10年)

  • 台風が襲来、大飢饉となり、琉球より米を拝借


1799年(寛政11年)

  • 人口3,357人


1800年(寛政12年)

  • 琉球国王へ贈物


1808年(文化5年)

  • 唐(中国)船、茶花村大浦(うぶら)へ漂着


1809年(文化6年)

  • 大干ばつのため、翌年まで大飢饉となる


1815年(文化12年)

  • 人口3,530人


1819年(文政2年)

  • 沖永良部島にサトウキビの植付け始まる


1824年(文政7年)

  • 金比羅神社を樋口石垣上に建立
  • 人口4,248人


1825年(文政8年)

  • 天然痘が流行


1826年(文政9年)

  • 天然痘が流行し、大飢饉となり多数の死者が出る


1829年(文政12年)

  • 大島、砂糖を総買上げ、金銭取り引き始まる


1831年(天保2年)

  • 人口3,180人


1835年(天保6年)

  • 金比羅神社を上城へ移す
  • 麻疹(はしか)流行


1838年(天保9年)

  • 人口3,203人(男1,617人、女1,586人)


1845年(弘化2年)

  • 人口3,700人(男1,878人、女1,822 人)


1851年(嘉永4年)

  • 疫病が流行し、250人が死亡


1852 年(嘉永5年)

  • 人口3,888人(男1,994人、女1,894人)


1869年(明治2年)

  • 高千穂神社を建立


1871年(明治4年)

  • 地主神社を建て氏神をまとめて祭る


1873年(明治6年)

  • 鶴政信氏初代戸長に就任
  • 砂糖の売買が自由になる


1875年(明治8年)

  • 沖永良部支庁の管轄となる
  • 大水間切と東間切に戸長役場を設置
  • 一般の人に名字がつけられる
  • 学問所(ナンカル学校)開校(児童数90人、教師5人)
  • 人口5,683人


1877年(明治10年)

  • 西南戦争に2名出兵

1878年(明治11年)

  • 風葬が禁止される
  • 亭野学校(与論小の前身)開校
  • チフスやコレラが大流行
  • 与論郵便局を城に設置(局長 平直和加氏)


1879年(明治12年)

  • 汽船が初めて入港


1880年(明治13年)

  • 戸長役場を城にまとめる
  • 上野應介氏戸長に就任(21年間在職)
  • 田畑の検地・登録を実施


1882年(明治15年)

  • 税金が金銭化される


1884年(明治17年)

  • 十五夜踊りが中止される


1886年(明治19年)

  • 天然痘・台風・火災の被害により飢饉


1887年(明治20年)

  • 与論簡易小学校となる


1890年(明治23年)

  • 沖永良部警察署与論駐在所を設置
  • 十五夜踊りが復活


1894年(明治27年)

  • 日清戦争に9名出兵


1897年(明治30年)

  • 簡易小学校を廃止、与論尋常小学校となる


1898年(明治31年)

  • 猛烈な台風が襲来し4年間大飢饉となる


1899年(明治32年)

  • 足戸に巡査駐在所を設置
  • 裁判所出張所を城に設置
  • 長崎県口之津への移住始まる


  • 長崎県口之津町での与論館落成式(平成7年2月)

長崎県口之津町での与論館落成式(平成7年2月)

与論館:明治32年に集団移住して石炭積出し労務に従事し、口之津繁栄の一端を支えてくれた与論の人達が使った当時の住宅(与論長屋)を館内に縮小再現した他、与論との縁を物語る様々な資料を展示し、その絆を永く伝えようと築いた館。


1900年(明治33年)

  • 与論尋常小学校の分校を茶花と那間に開校


1901年(明治34年)

  • 梅山藤里氏戸長に就任


1904年(明治37年)

  • 日露戦争に25名出兵


1905年(明治38年)

  • 戸長役場を城から茶花に移転
  • 時千良氏戸長に就任


1906年(明治39年)

  • 赫助熊氏戸長に就任


1908年(明治41年)

  • 与論村となり村役場を置く
  • 龍田佐隆史氏初代村長に就任
  • 第1回村会議員選挙実施


1909年(明治42年)

  • 菅原神社を琴平神社に合祀する


1911年(明治44年)

  • 茶花・麦屋(西区)間に道路開通
  • 大野好文氏県会議員に当選


1912年(大正元年)

  • 龍宮辰次郎氏村長に就任


1914年(大正3年)

  • 第1次世界大戦に10名出兵


1915年(大正4年)

  • 龍中興氏村長に就任


1916年(大正5年)

  • 与論島一周道路が開通
  • 皆吉平安禎氏村長に就任


1917年(大正6年)

  • 麦屋と立長から分立して城字ができる


1918年(大正7年)

  • 山下平志氏村長に就任


1919年(大正8年)

  • 麦屋から西区と東区に分かれる
  • 茶花尋常小学校と那間尋常小学校が独立


1920年(大正9年)

  • 足戸・古里・那間から分立して叶字ができる
  • 第1回国勢調査による人口7,916人


1922年(大正11年)

  • 電報が打てるようになる


1924年(大正13年)

  • 山喜見政氏村長に就任


1925年(大正14年)

  • 国勢調査による人口7,661人


1926年(大正15年)

  • 村立青年訓練所与論小内に開設
このページに関する
お問い合わせは
(ID:2340)
ページの先頭へ
Copyright (C)2023 Yoron Town.