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与論町のあゆみ(昭和2年~37年まで)

最終更新日:

1927 年(昭和2 年)
・鉛筆・ノートが使われ始める


1930 年(昭和5 年)
・(国勢調査による人口8,227 人)

 

1931 年(昭和6 年)
・動力製糖工場(昭和工場)や精米所ができる
・脱穀機が初めて使われる
・満州事変に横山治興氏などが出兵


1933 年(昭和8 年)
・茶花に消防団を結成
・黒田正孝氏村長に就任


1935 年(昭和10 年)
・青年訓練所を廃し青年学校を開設
・(国勢調査による人口8,630 人)


1936 年(昭和11 年)
・村営汽船与論丸が与論・沖縄間に就航


1937 年(昭和12 年)
・田中上安氏村長に就任
・村立青年学校が独立
・大金久に防砂林を植樹


1939 年(昭和14 年)
・青年学校も義務制となる
・初めて自動車が走る(東亜燐鉱株式会社)


1940 年(昭和15 年)
・(国勢調査による人口7,889 人)


1941 年(昭和16 年)
・尋常小学校を国民学校に改称
・黒田正孝氏村長に再就任
・村立青年学校が現在の与論中に完成
・太平洋戦争始まる


1943 年(昭和18 年)
・満州移民開拓団先遣隊出発(団長・伊東佐江吉氏)
・足戸に郵便局を開設


1944 年(昭和19 年)
・満州移民開拓団第1 陣出発
・金井清実氏村長に就任
・初空襲を受け与論丸沈没


1945 年(昭和20 年)
・3 月23 日から3 日間の空襲を受け、茶花商店街や茶花校焼ける

 同23 日那間校、26 日与論校や青年学校焼ける

4 月4 日琴平神社焼ける

(全島で約370世帯が焼ける)

・8 月15 日終戦、10 月に米軍初来島
・9 月1 日、3 小学校入学式を挙行
・(人口7,913 人)


1946 年(昭和21 年)
・アメリカ合衆国統治下に置かれ、日本と分離(2 月2日)、帰国した満州移民団肝属郡田代町に再移住


1947 年(昭和22 年)
・青年学校を廃止し、村立実業高校を開校
・相撲・柔道協会を設立(会長 坂元原澄氏)
・酒工場(有村酒造)できる
・与論村漁業会設立(会長 坂元原澄氏)

 

1948 年(昭和23 年)
・新しく小学校と改称
・山本喜久政氏村長に就任

 

1950 年(昭和25 年)
・農協に自動車が入る(戦後初)
・(人口8,141 人)


1951 年(昭和26 年)
・与論(茶花に150 灯)に初めて電灯がともされる(南発電所)


1952 年(昭和27 年)
・龍野通雄氏村長に就任


1953 年(昭和28 年)
・奄美群島が日本に復帰(12 月25 日)

奄美本土復帰を祝う児童生徒たち


1954 年(昭和29 年)
・足戸を朝戸に改称
・与論中学校に鉄筋校舎が完成
・与論小学校にPTA による付属幼稚園を開設
・小祝幸一氏、小笠原からカボチャの種子を持ち込み、栽培を始める
・与論村漁協協同組合と改称


1955 年(昭和30 年)
・診療所を開設
・山下平志氏村長に再就任
・(国勢調査による人口7,851 人)


1956 年(昭和31 年)
・与論小学校に鉄筋校舎が完成


1957 年(昭和32 年)
・村営発電所できる
・那間小学校に鉄筋校舎が完成


1958 年(昭和33 年)
・茶花小学校に鉄筋校舎が完成
・電話が開通
・テレビが見られるようになる
・あけぼの丸が就航
・奄美大島信用金庫与論支店開設


1959 年(昭和34 年)
・久留富森氏村長に就任


1960 年(昭和35 年)
・タクシーが走るようになる(南タクシー)
・(国勢調査による人口7,792 人)


1961 年(昭和36 年)
・プロパンガスの使用始まる(吉田プロパン)


1962 年(昭和37 年)
・バスが走るようになる(南陸運)
・大型製糖工場ができる
・兼母灯台ができる
・一週道路が県道になる

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