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シニグ祭(起源と移り変わり)

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シニグ祭の起源

シニグ祭が行われるようになったのは、与論島で稲作が始められた後からだと言われており、稲の豊作を願い稲作を始めた男神「シニグ」を稲穀に因んで神明化したものだろうと言われている。
原初は、樹木や石や屋敷(ヤアドゥクル、家処)や、稲穂などを神体としての古神道が行われ、新米で御酒(ミキ)を造り、シニグ祭 が行われていたものと見られる。
茶花字の「ハニクサアクラ」の神体は、自然の樹木と自然石が用いられ、城の「マササアクラ」では、根石(ニイイシ・地に根をもち成長する石だとの信仰がある)を神体にしていて、他のサアクラも殆ど同じであり、原初の面影を留めたものであろう。
なお、原初の頃は氏族の宗家の女性が、ヌル(祈女、女神職)となり、神憑りをして吉凶豊年に関する神の託宣を告げ、祭事を行っていたと見られる。
※この「ヌル」(沖縄や奄美諸島の「ノロ」に当たる)は、琉球神道の影響のみによるものではなく、それ以前の古代からあったと見るべきだらう。
氏族達が集まり、豊作を祈願し酒盛りをしながら「ウタカキ」唄遊びが行われ、パラジ(親戚)意識を強めたものと見られる。

 

シニグの移り変わり

原初の豊作祈願や親族意識を強めると言った主旨は残されたまま、次第に英雄(朝戸ではアジンチェエ)などが結び付けられ、やがて牛や馬など家畜の健康と五穀豊穣・嶋中安穏が祈願されるようになり、併せて琉球神道の影響を受けてヌルの祭祀奉仕が形式化され、男性系の宗家の男が司祭するようになったと思われる。
この頃から、シニグ神遊びに用いられていた太鼓、笛に三味線が加わり唄遊びや歌踊りが行われるようになり、シニグ踊りは血族者達の楽しみの一つとなった。
このシニグ踊りは、明治3年まで毎年7月17日本祭で主にグスクのサアクラで踊られていたが、明治4年に琴平神社が創建された時、ウガン(全島の拝む聖所)が琴平神社に合祀され、シニグ祭は廃止された。
シニグ踊りは、永禄4年1561年に創作された与論十五夜踊の二番組踊りに取り入れられており、これは今も踊り継がれている。
明治3年までは、毎年7月17日のシニグ祭と8月15日の年2回踊られていたが、明治4年からは3月15日・8月15日・10月15日の年3回豊年踊(十五夜踊)として踊られるようになった。
豊年踊が、シニグ踊として行われていた時代には、グスクの屋号ホオチのシニグ処で1番組と2番組の全部を舞い踊り、次にウプミシサアクラ(後のクチビャアサアクラ)において、サアクラ主の賄いを受けて踊られ、トゥヌ地(殿地・代官所在地)で二番組の全部を踊り納める慣例になっていた。
もし、ホオチサアクラにおいて何らかの都合で全部を踊り終われない場合には、村にたたりがあると言われ、明治以降豊年踊を舞い終わるかは、村の責任者たる村長の命に従うことになった。
しかし、この豊年踊も明治17年の旱魃による農作物枯死により経済不況を招き、中止された。19年には疫病が全島に蔓延し、20年には火災(少ないときで5,6軒、多いときで20数軒)が相次いで起こった。
明治22年グスクの林佐江勝氏の米寿のお祝いの席で、集まった村の有志の人々の口から「近頃災難続きなのは、昔からの豊年踊・豊年祈願の祭りを怠ったから、祟りがあったのだ」との声があがり、それが島内の世論となり翌年23年から復活されることになり、シニグも隔年に行われることになった。
明治32年にも、シニグと豊年踊の廃止論が再び上がったが、継続論が認められ以後、現在まで継続されている

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