国指定史跡 与論城跡
標高93mの琉球石灰岩の台地下に造られた最北端の大型のグスクで、琉球山北(北山)王の三男が与論の島主として築城を始めましたが、途中、北山王朝が滅亡したために未完成と伝わっています。
発掘調査の結果、14世紀後半~中頃に神社がある崖上の部分が作られ、その後、14世紀後半~15世紀中頃にかけて崖下部分の城域が整備されたと考えられています。城跡は、15世紀後半以降に廃絶しました。
与論城跡は、当時の東シナ海域の歴史的な状況の変化に連動して築城されるなど、南方社会の実態を知る上でも重要な史跡です。
令和7年に国の史跡に指定されました。
与論の豪傑 大道那太(ウプドーナタ)
剛力で海仕事や武力にも長けていた「大道那太」。
琉球王の助けに応じて彼が異国船に向けて放った矢の威力に敵は恐れをなして遁走したといわれています。
上城遺跡公園
平成元年に当時の鹿児島県教育庁文化課の協力を得て、土地改良事業に先立って調査が行われました。
縄文時代晩末期から弥生時代の住居跡や土器などが発見されました。一部はサザンクロスセンターに展示しています。
磯振墓(イシュブリ墓)
初代与論主「花城真三郎」・二代「殿内与論主」・七代「田畠首里主」の三柱が葬られている琉球式の墓。
田畠首里主の構築であると、いわれています。
奄水(アマンジョウ)
与論島の人類渡来発祥の地とされ、島に初めて人が渡来した時にここの水を発見して、それから島に人が住み着いたと伝えられています。
屋川(ヤゴー)
この地下の湧き水は、与論世の主が築城時代から使用されていたという説もあり、水道施設が整備されるまでは城集落の生活用水として利用されていました。